郁夫は学究肌で商業には向かない体質であったが、先代の急逝で引き継ぐこととなり懸命に努力した。間もなく妻かつ子を迎え、大きな支えを得ることとなり、大きな転換期を迎えることになる。
かつ子は一度に大勢の家族と豆腐製造業に取り組むことに戸惑ったが、これも与えられた運命と決意し渾身の力を振り絞って協力した。時に19歳の若さであった。
当時は大きな釜から大きな杓で豆乳をくみ出し、丸竹の簾の上に竹の棒で絞り、型箱に詰め、その上に10キロぐらいの重石をいくつも乗せた。毎日の薪割り、豆腐造りや配達、など慣れない仕事は苦労の連続であった。
そのうち、豆腐も日常食化し、昭和35年には、かつ子はオートバイの免許をとり、舗装されていない道路を背中に子供を背負い、前後に豆腐を乗せての配達は容易でなかった。
昭和40年代になり、豆腐の生産量は増えたが製品のばらつきや製造の失敗など体力も限界を感じ始めた。
そのころ問屋も見かねてボイラーの提供があり、郁夫は辞退したが、現状打開のため数ヶ月後導入を決意し、漸く重油ボイラーで煮釜付き蒸器を設備し効率化した。油揚げもプロパンガスに切り替えた。
その後従業員も増え、労務管理や衛生管理を考え、さらに製品の安定的供給などの観点から新工場の建設に踏み切ることとした。同時に改良された機器の導入、ミニプラントの設置を図った。さらに重石は手動ジャッキに変えた。
その頃、集中豪雨に見舞われ、都田橋は流失、工場は浸水、自宅も1bぐらいまで浸水し、原料の大豆も冠水し、製造機器は分解・点検など被害は甚大であった。
昭和52年、またまた苦難の事故が起きた。それは工場の火災だった。一時廃業を考えたが、郁夫は断念できず4ヶ月の休業後再出発することができた。顧客の動向が不安だったが、多くの励ましの支援と協力があり、従業員も給料の返上を申し出るなど、熱意が伝わったものと感謝の気持ちで一杯だった。
時代は推移し、スーパーとの競合や大きな同業者との競い合いなど経営は苦労の連続でストレスの絶えることはなかった。
昭和58年、諸般の状況判断から株式会社 須部商店設立へと発展していった。
そのころ大きな試練が訪れた。それは、郁夫が病に倒れ、同時にかつ子の胃ガンの発病であった。郁夫はかつ子の病状を気にしながら、間もなく悔いを残しながら他界したのである。
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