トップページ&更新情報
最新情報
できたてとうふまつり(豆腐祭)
大豆を使った健康レシピ
業販のご案内
商品一覧
ご提案
業務用お問合せ
川辺の食卓 都田のとうふ 勘四郎
「川辺の食卓 都田のとうふ 勘四郎」電話お問合せ
勘四郎ご予約について
当店の歴史
水と大豆とにがりへのこだわり
衛生管理と品質管理
よくある質問Q&A
取材&紹介記事
会社案内・店舗案内
リクルート

お問合せ電話番号053-428-2031
メールお問合せ

都田風土記


当店の歴史

須部商店の紹介

創業明治10年
南アルプス山系「天然地下水仕込み」
ふんわり、なめらかな豆腐づくりで、
豆の旨みを引き出しています。



「須部商店」所在地:
静岡県浜松市北区都田町6515番地


浜松市の北端に位置し、
周囲は赤石山脈に連なる緑多い山々に囲まれ、
自然に恵まれた環境の都田川沿いに存在する。

初代 勘四郎(1877〜1939年) 初代 勘四郎(1877〜1939年)

創業は明治10年で、最初は古びた小屋の軒先で、米麦や野菜などを販売し、近隣の信望も厚く、商売を心から好んでいたがお人好しのところがあり、営業実績はあまり芳しくなかった。

そこで、当時は豆3升あれば生きていけると聞き、豆腐屋を開業した。持ち前の努力家で、天秤を担いで売り歩くなど周囲から人気を集めていた。

当時は都田川にはさらさらと清流が流れ、水車小屋の豆挽く音色が響き、できあがる豆腐は美しく輝き、高い評価を得ていた。そのころは、暑い夏は休み、秋から春にかけて営業していた。



二代 伊平(1939〜1958年) 二代 伊平(1939〜1958年)

伊平は、もともと多くの使用人とともに蚕業を中心としていた。
蚕業は夏のみだったので、初代勘四郎の手伝いも兼ねていた。

昭和20年終戦となり、繭の輸出が不可能となり、やむを得ず蚕業を閉じて昭和22年頃から本格的に豆腐の製造業に専念することになった。伊平は経営感覚に優れ、動力機械の導入や石臼の動力化など合理化を図り、ベルトの回転する響きは力強いものだった。

しかし、当時は原料の大豆が入手困難となり、一時蒟蒻の製造に切り替えることとなり、食料不足の時代でもあり、駅に近いという立地条件も幸いして遠方から買い出しに来てくれる客も多く繁盛した。

昭和25年頃から大豆の流通も可能になり、蒟蒻と豆腐の製造が半々ぐらいになり、自転車による販売からオートバイを活用する販売まで拡大していった。



三代 郁夫(1958〜1987年) 三代 郁夫(1958〜1987年)

郁夫は学究肌で商業には向かない体質であったが、先代の急逝で引き継ぐこととなり懸命に努力した。間もなく妻かつ子を迎え、大きな支えを得ることとなり、大きな転換期を迎えることになる。

かつ子は一度に大勢の家族と豆腐製造業に取り組むことに戸惑ったが、これも与えられた運命と決意し渾身の力を振り絞って協力した。時に19歳の若さであった。

当時は大きな釜から大きな杓で豆乳をくみ出し、丸竹の簾の上に竹の棒で絞り、型箱に詰め、その上に10キロぐらいの重石をいくつも乗せた。毎日の薪割り、豆腐造りや配達、など慣れない仕事は苦労の連続であった。

そのうち、豆腐も日常食化し、昭和35年には、かつ子はオートバイの免許をとり、舗装されていない道路を背中に子供を背負い、前後に豆腐を乗せての配達は容易でなかった。

昭和40年代になり、豆腐の生産量は増えたが製品のばらつきや製造の失敗など体力も限界を感じ始めた。

そのころ問屋も見かねてボイラーの提供があり、郁夫は辞退したが、現状打開のため数ヶ月後導入を決意し、漸く重油ボイラーで煮釜付き蒸器を設備し効率化した。油揚げもプロパンガスに切り替えた。

その後従業員も増え、労務管理や衛生管理を考え、さらに製品の安定的供給などの観点から新工場の建設に踏み切ることとした。同時に改良された機器の導入、ミニプラントの設置を図った。さらに重石は手動ジャッキに変えた。

その頃、集中豪雨に見舞われ、都田橋は流失、工場は浸水、自宅も1bぐらいまで浸水し、原料の大豆も冠水し、製造機器は分解・点検など被害は甚大であった。

昭和52年、またまた苦難の事故が起きた。それは工場の火災だった。一時廃業を考えたが、郁夫は断念できず4ヶ月の休業後再出発することができた。顧客の動向が不安だったが、多くの励ましの支援と協力があり、従業員も給料の返上を申し出るなど、熱意が伝わったものと感謝の気持ちで一杯だった。

時代は推移し、スーパーとの競合や大きな同業者との競い合いなど経営は苦労の連続でストレスの絶えることはなかった。

昭和58年、諸般の状況判断から株式会社 須部商店設立へと発展していった。

そのころ大きな試練が訪れた。それは、郁夫が病に倒れ、同時にかつ子の胃ガンの発病であった。郁夫はかつ子の病状を気にしながら、間もなく悔いを残しながら他界したのである。



須部かつ子社長
須部治専務
かつ子(1987年〜)

郁夫の後を引き継いだかつ子は、病後の疲れを厭う暇もなく会社経営に心力を注ぐことになったのである。それには、設備の更新であり、さらに同業者との競争をいかに乗り越えるか、業界の先見性が必要なことであった。

第一に取り組んだのは、水処理の問題だった。簡易水道だけでは足りず、井戸の発掘に取りかかった。西に600bいったところによい水脈があると聞き、近隣の人たちの協力を得て試掘したところ、赤石山脈系の水系に当たり豊富な水に恵まれ幸運だった。

会社経営には経営改善の時期があるもので、時期を逃すことはかつ子の考える夢の実現にも係わることであり、鋭意決断して平成4年には社員の増員等から念願の新社屋が完成の運びとなった。

昔の豆腐屋感覚から脱皮して、幅広い顧客に安心で安全な美味しい都田の豆腐を提供できるように考え、多くの人から愛される「地域を代表するブランド」にしたいと努力を積み重ねてきたのである。

平成16年2月には、大豆の栄養分をすべて含んでいる独自の製法による「まるごと飲む大豆」を開発し、系列会社としての(株)さあかコーポレーションを創立したのである。

このように(株)須部商店は別名「山奥の豆腐屋」のイメージをもちながら、恵まれた環境と衛生的で近代的な生産設備をもち、赤石山系の良質の天然地下水と百年にわたる技をもって常に高品質の豆腐を世に送り出している老舗なのである。



− 当サイト内の画像・文等の無断転載・加工・使用を禁じます−
株式会社須部商店 静岡県浜松市北区都田町6515 TEL:053-428-2031